今回は、三河地方に親鸞聖人の教えが弘まるきっかけとなった、親鸞聖人の直弟子「顕智」の布教について紹介します。
最初に顕智とはどのような人だったのか、説明します。
顕智
顕智(けんち)は、親鸞聖人の直弟子で、生年は明確ではありませんが、嘉禄2年(1226年)頃と推定されています
最初は比叡山で出家し修行を積み、賢順と号していました。
その後、親鸞聖人の直弟子である真仏に師事し、後に親鸞聖人の直弟子となり「顕智」という名前をいただきました。
真仏についてはこちらの記事をお読みください。
多くの時間を親鸞聖人に従い、親鸞聖人が京都に戻る際にも同行したといいます。
顕智は、何度も関東と京都を往復していたと伝わっており、親鸞聖人を大変お慕いし、親鸞聖人から直接教えを聞いていたことがわかります。
正嘉2年(1258年)に真仏が亡くなったあと、顕智は真仏が開いた専修寺(現在の真宗高田派の本山)の3世を継ぎ、この年に、顕智をはじめ、東国布教において有名な高弟たちが京都の親鸞聖人のもとに赴き、面会しています。
そして親鸞聖人がお亡くなりになった際には、顕智は葬儀を執り行った聖人直弟子の一人でもあります。
親鸞聖人が亡くなられたあとも、覚信尼を助けて大谷廟堂(後の本願寺)の造営に力を注ぎました。
延慶3年(1310年)7月4日に85歳で亡くなっています。
顕智は、関東から京都へ向かう途中、また京都から帰る途中で三河国で布教しました。
どのように布教したのでしょうか。
三河国での布教
建長8年(1256年)10月13日、お弟子の真仏房、顕智房、専信房と、使用人の弥太郎(出家後、随念)の4人が関東から京都に向かいました。
親鸞聖人84歳のときであり、善鸞義絶事件が起こった頃でした。
京都に向かう途中、三河国矢作川の西、矢作の里、矢作薬師寺に到着し、そこで阿弥陀仏の本願を伝えたと言われます。
このときが三河国で最初に浄土真宗が伝わったときとされます。
現在この薬師寺は存在しませんが、薬師という地名が残っていたり、薬師寺の跡と伝えられる場所もあります。
その後、京都へ到着し、4人が親鸞聖人と面会後は、顕智房のみしばらく京都に滞在し、真仏房、専信房、弥太郎は名残惜しみながら関東へ帰国しました。
真仏房は、顕智房に対して、京都から帰る途中、三河国に滞在し親鸞聖人の教えを伝えるよう命じており、顕智房はそれに従い、年末には京都を離れ、三河国に留まったといいます。
顕智房は、三河国の安藤薩摩守信平の父、安藤権守綱房のもとに留まり、阿弥陀仏の本願を伝えました。安藤権守綱房は、和田綱房ともいい、もとは和田城または安城古城の城主だったと言われています。
安藤権守綱房(和田綱房)は、後に出家したあと円善となのり、この地域の門徒は、和田門徒と呼ばれるようになりました。
顕智房は安藤権守綱房のもとで、建長8年より正嘉2年(1258年)に至るまで、約3年間、布教にあたりました。
3年目の年に、真仏の病気の知らせか、訃報を聞き、三河国を後にし、真仏開基の寺である常陸付近にある称名寺へ向かいました。
真仏が亡くなり、専修寺3代目を継いだ同年に、数人の親鸞聖人のお弟子と共に再び京都に向かいました。そして京都から帰る途中に、再度三河国に滞在しています。
その時、安藤権守綱房の息子である袈裟太郎を教化し、袈裟太郎は出家して信願房の法名を授かりました。
そして袈裟太郎を含め、合計35人が親鸞学徒となったと伝わっています。
袈裟太郎が教化される前年、正嘉元年には、袈裟太郎の弟である庄司太郎が、平田(旧矢作町・現岡崎市付近)に聞法道場(平田道場)を建てました。
これが三河国最初の浄土真宗の聞法道場となりました。
兄の袈裟太郎は、三河国の碧海荘赤澁に道場を建て、第2の道場となりました。
当時この2つの道場から、三河国各地へ、親鸞聖人の教えが弘まり、道場の建立が進んでいくこととなります。
編集後記
愛知に浄土真宗が伝わったのは、親鸞聖人の直弟子のご活躍があってのことでした。ここから三河に和田門徒、赤渋門徒、平田門徒といわれる熱心な親鸞学徒が誕生します。
当時ほとんど伝わっていなかった場所で布教は、大変なご苦労があったと偲ばれます。
先輩親鸞学徒のご苦労があって、今日までも伝わっている親鸞聖人の教え・阿弥陀仏の本願を、浄土真宗親鸞会名古屋会館で聞きかせていただきましょう。
