今回は、『顕真』平成19年2月号の『黎明期の証言』の内容を紹介します。
参詣50人から始まった
日本の百万人都市の中でも、愛知県名古屋市は、浄土真宗が多い。
昭和47年、初めての高森先生ご法話が名古屋市公会堂で開催された時、参詣者は、わずか50名だった。
今日の名古屋で真実の教えが広がっていった様子をよく知っている井上さんに、懐かしい思い出を聞いた。
──高森先生との出会いを聞かせてください。
井上さん
お名前をお聞きしたのは、昭和36年ごろだったと記憶しています。先生は、30代でした。
当時、高岡市(富山県)で歯科医院に勤めていた私は、医師の母から、
「親鸞聖人の教えをハッキリ説かれる、若い先生がおられるよ」
と聞いて、一緒に市内の前田町の会館へ出掛けたのです。
高森先生の情熱的なご説法と、皆さんの温かい応対に感動して、続けて聞くようになりました。
けれども一つだけ、気になることがありました。
先生は何度も、縦と横の線を黒板に引かれ、縦の線を指されて、「ここで、ハッキリ救われます」とおっしゃいます。
隣に座っていた、医師の母と、
「あそこは違うね……」
と顔を見合わせました。
私たちは、少し前に、ある儀式を受けていたからです。
……………………………
歯科医院の隣に住むおばあさんから、
「極楽の門まで往ける話があるんや」
と誘われ、在家の一室で、その儀式を受けました。
仏壇に向かって、”善知識”を名乗る男と、”善友知識”だというおばあさんに両脇から挟まれ、首をつかまれて、上下に何度も振られました。
やがて、お仏壇に顔を向けさせて、「今、阿弥陀仏を見たやろ」と言うのです。
仏壇の絵像のことだと思って、
「はい」
と答えると、
「それで、助かったんだよ」
と言われました。
「ふーん。こんなことで、本当に極楽に往けるのかな」
と、半信半疑でした。
……………………………
そんな体験があったので、他力の信心は、高森先生のおっしゃるようにハッキリするのか、ボンヤリしたものか、疑問が出てきたのです。
お尋ねする度胸もないまま、4回目の参詣の時、親鸞学徒の方と話す機会がありました。
すると、
「あなたの信心は、土蔵秘事という、間違った安心です」
と言うではないですか。
それほど信じていたつもりはなかったのですが、やはり、あて力にしていたのでしょう、ショックで頭がクラクラしてしまいました。
重ねて聞かせていただき、自力他力の水際を、親鸞聖人のお言葉を通して説かれる高森先生のご教導こそ、本当の浄土真宗だと知らされました。
青年の親鸞学徒の増加
──昭和38年には、青年の親鸞学徒が多くなっています。当時の思い出は?
井上さん
『正信偈』や『阿弥陀経』の読み方は、高森先生からじきじきに教えていただきました。仏教劇にも出演しています。
特に思い出深いのは、教学試験です。先生が監督なされ、その場で採点もされました。
親鸞会で初めて、もっとも難しい試験に合格した時は、うれしかったですよー。
深松さん(故人)ともう一人、三人の合格を喜ばれて、懇親会を設けてくださったのです。
当時も講師試験は、十問くらいでした。
「二河白道を進んでいくと、煩悩は、邪魔になるか、ならぬか。また、その根拠を示せ」
という問題があったのを覚えています。
青年は当時、50人ほどでしたが、皆、熱心に仏法を聞き、100、150、200と徐々に増えていき、どんどん発展して、青年の親鸞学徒であふれるようになっていきました。
東海を制する者
──結婚してから、名古屋へ移住されたと聞いています。
井上さん
主人は、名古屋で自営業をしていました。
結婚した昭和43年当時、名古屋には、親鸞学徒が一人もいなかったのです。
やがて、浅倉保講師を毎月招待して、家庭法話を開くようになりました。
また名古屋でご縁のあった方の他の家でも、法話会が開かれるようになり、寺院での法話も開催されるようになりました。
このころ、名古屋の御園座という有名劇場で、親鸞聖人の劇が上演されていました。
浅倉講師が『浄土真宗親鸞会を知っていただくために』というパンフレットを作成され、配ったところ、「親鸞会をもっと知りたいので、資料を送ってほしい」という葉書が40枚ほど届きました。
浅倉講師は資料を送付したり、訪問したりして、市内や知多半島などにも親鸞学徒が誕生したのです。
大ホール予約するも……
井上さん
家庭法話を続けるうち、昭和47年の春ごろだったか、
「名古屋で、高森先生のご法話を開きたい」
という思いが、私の心にわき上がってきました。
その気持ちをお伝えしたところ、先生はすぐに、
「それなら、11月に行きましょう」
と快諾してくださいました。
主人と話し合い、会場は、「知名度の高い名古屋市公会堂に」と決めました。
なにしろ、名古屋で初めてのご講演です。どれほど参詣者があるか分からず、公会堂でいちばん広い4階ホールを借りました。収容人数は、800人ほどでした。
そして、主人と二人、「ここなら目につく」と思う場所に500枚のご講演ポスターを張って、当日を待ったのです。
ところが、参詣者は50人足らず。
急遽、定員100人ほどの集会室に移動することになりました。
それでも、先生を初めてお迎えできた喜びで、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
高森先生から、このようなお葉書を頂いております。
名古屋の最初の勝縁、貴方々の力によって結ばれました。信火は、必ずや燃えひろまるでしょう。
種々人生の荒海にもまれながらの聞法こそ、不抜の宿善となり、やがて開発するに間違いありません。
しっかりがんばって下さい。
有難う
「やがて宿善開発する」というお言葉がうれしくて、一層、聞法精進しなければ、と思いました。
今思えば、家財道具もない、ガランとした家にお泊まりくださり、ろくなご接待もできず、失礼なことであったと申し訳ない気持ちです。
その後、ご法話に参詣した方々に、手紙をしたためたところ、電話やら礼状が次々に届きました。わざわざ私の家に訪ねてきた人まであったんですよ。
信火は必ず燃え広がる
井上さん
翌年7月には、高森先生にお願いして、岐阜とは別に、名古屋へ親鸞会の講師を送っていただきました。岡崎美恵子講師です。
拠点として、自宅のすぐそばのアパートを探して、迎えました。乗用車もこちらで用意しました。
この時も、先生からお葉書を賜りました。
葉は枯れ、花は散り、枝は折れても、土に思いの根は残る。名号不思議の念力を一切の人々に注がずにおれません。
君達が親切にしてくれるので、安心して(講師を)送れました。何かとよろしくたのみます
2回目の名古屋ご法話に向け、岡崎講師を中心に、伊藤さんや山本さんなどとも協力して準備をし、この時の参詣者から、続けて仏法を聞かれる方が多く現れました。
昭和50年代に入ると、多くの学生も仏縁を結び、法輪は急速に拡大していく。
名古屋市公会堂での高森先生ご法話は、昭和62年まで続いた。
ついに入り切れなくなり、数千人が聞法できるレインボーホールで開催されるほどになった。

井上さん
わずか50人の参詣者だった初めてのご法話の時に、
「信火は必ずや燃え広まるでしょう」
とおっしゃったとおりになりました。
「先生は常に、ずーっと未来を見据えておられるのだなあ」と思わずにおれません。
名古屋市内だけでも現在、多くの親鸞学徒がありますが、220万の人口から見れば、まだまだです。
親鸞聖人の本当のみ教えを共に聞かせていただきたいと思います。
編集後記
50人から始まったご講演から、今では多くの親鸞学徒が仏法を聞き続けられています。
先輩の親鸞学徒が繋いでくださった真実の法灯を感謝せずにおれません。
これからも浄土真宗親鸞会名古屋会館で、共に阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。
