今回は、親鸞聖人が三河国(現在の愛知県西三河地方)を訪れたときの、念信房蓮慶という一人の武士との出会いについて紹介します。
東国武士の拠点となった三河
三河といえば、徳川家康を支えた「三河武士」の土地です。結束が強く、忠義に厚いことで知られるこの武士団のルーツは、東国にありました。
鎌倉時代、承久の乱(1221年)の後、三河国の守護に任命されたのは足利義氏でした。源氏の流れを汲み、下野国(現在の栃木県)を本拠地としていた一族です。やがて仁木氏、細川氏、吉良氏、今川氏、一色氏など、東国の武士たちが続々とこの地に移り住みました。
親鸞聖人が三河を訪れたときにはすでに、ここには関東ゆかりの人々が数多く暮らしていました。
親鸞聖人、矢作の地へ
文暦2年(1235年)2月の初め、親鸞聖人は遠江国(現在の静岡県西部)の桑畑を出発され、日数を経て三河国矢作の桑子村に入られました。このとき聖人は63歳でした。
『親鸞聖人正統伝』には、次のように記されています。
六十三歳二月ノ初、遠江桑畑ヲ出テ、日ヲ経テ、参河国桑子村二入タマフ。ココ二柳寺トテ、小堂アリ。聖人、桑子ト柳寺トニ六七日トトマリテ、教訓ヲホトコサル。念信房ヲ始トシテ、道俗ヲホク集来、聞法ノ場、市郷二コトナラス。是ヨリ、尾張、伊勢、美濃ナントヲ勧タマヒケルニ、化二予モノ、路ニサエキレリ。
出典:『親鸞聖人正統伝』
意訳:親鸞聖人が63歳の2月初旬、遠江国桑畑を出発され、何日か経って三河国桑子村にお入りになりました。ここには柳寺という小さなお堂がありました。聖人は桑子と柳寺に42日間滞在され、教えを説かれました。念信房を始めとして、出家者も在家者も多く集まり、聞法の場は市場のように賑わいました。その後、尾張、伊勢、美濃などを巡られましたが、教えを求める人々は道に溢れるほどでした。
矢作は東海道の宿場町として栄えていましたが、聖人がここで足を止めた理由はそれだけではありませんでした。かつて関東で聖人の教えを聞いた人々の中に、先にこの地へ移った者が少なからずいたのかもしれません。
桑子村には柳寺という小さな堂がありました。聖人はまず、この地に滞在することを決めました。
安藤信平、聖人を招く
桑子村を治めていたのは、安藤薩摩守信平という領主でした。平田の荘を治める武士として、人々から敬われる存在でした。
ある日、安藤信平は、親鸞聖人が矢作の地を通られるという知らせを耳にしました。
その高徳を慕い、彼は自らの城内にある太子堂に聖人をお招きすることを決意します。
そして親鸞聖人から直接、阿弥陀仏の本願念仏の教えを聞く機会を得たのです。
信平は、自己のこれまで造った悪業を思い出さずにはいられませんでした。
「こんな悪ばかり造ってきた俺でも、阿弥陀仏は救ってくださるのか」
聖人の説かれる教えは、安藤信平の心に深く染み入りました。武士として生きてきた彼にとって、阿弥陀仏の本願―どんな人間も必ず救うという誓い―は、大変な驚きでした。
安藤信平はついに弟子となり、親鸞聖人から「念信房蓮慶」という法名を頂いたのです。
柳堂での教化と人々の帰依
親鸞聖人が矢作にお越しになったという知らせは、瞬く間に周辺の村々に広がりました。聖人の教えを聞きたいと願う人々が、次から次へと集まってきました。
そんな人々の願いに応えて、親鸞聖人は当初の予定を変更し、なんと40日間もこの地に滞在されたといいます。
教えの中心となったのが、柳堂薬師寺でした。
この柳堂は、もともと往古、安藤氏の先祖が河内国安部野から三河国桑子に移住した際、聖徳太子御自作の木像を安置するために建立したものでした。お堂の前に柳の大樹があったことから、「柳堂」と呼ばれるようになったといいます。
この柳堂で、親鸞聖人は連日、阿弥陀仏の本願を説かれました。武士も農民も商人も、身分を問わず多くの人々が聖人のもとに集い、聞法の場は市場のように賑わったのです。
日々は静かに流れていきます。いつまでも矢作にばかりいられません。
やがて親鸞聖人は次の地へと旅立たれます。尾張、伊勢、美濃へと向かう聖人を慕って、多くの人々が聖人の後を追ったと伝えられています。
明眼寺(妙源寺)の創建
親鸞聖人との出会いから23年後、正嘉2年(1258年)、念信房蓮慶(安藤信平)は一つの決意をします。
自らの城地を割き、一宇を建立して「明眼寺」と名付け、三河の聞法道場となりました。
やがて13世紀後半には、関東二十四輩の真仏や顕智がこの三河を巡錫され、明眼寺は重要な拠点となっていきました。
時代は流れ、戦国時代を経て徳川家康の時代になると、この寺は家康から特別な恩恵を受けることになります。「源」の一字を賜り、「妙源寺」と改称したのです。これが現在の桑子山妙源寺です。
現在に残る直筆の御名号
妙源寺が重要な拠点であったことは、親鸞聖人直筆の十字名号も保存されています。。
西本願寺に伝わるものと全く同型の、親鸞聖人直筆の十字名號も保存されています。康元元年(1256年)10月28日に書かれたもので、聖人84歳の時の筆跡です。上段には『大無量寿経』の第十二・第十三の願文、中段には名号、下段には天親菩薩の『浄土論』の初めの六行十二句が記されています。
また法然上人の御影もあります。これは「撰択相伝眞影」ともいわれるもので、親鸞聖人が法然上人から『選択本願念仏集』を書き写すことを許された際に、一緒に描かれた法然上人の御影だといわれています。
これらは弟子の顕智が京都の親鸞聖人のもとを訪れ、帰る際に三河の妙源寺に納めたものと考えられています。
編集後記
妙源寺には、親鸞聖人直筆の御名号が今も大切に伝えられています。
これは、親鸞聖人の教えが三河の地に確かに根付いていたことを示すものです。
浄土真宗親鸞会名古屋会館の御本尊は御名号であり、聖人の法脈は名古屋会館に現代まで正しく受け継がれています。
これからも浄土真宗親鸞会名古屋会館で、阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。
