今回は、愛知県岡崎市に位置する河原山勝蓮寺の伝承について紹介します。この寺院には、親鸞聖人と蓮如上人にまつわる感動的なエピソードが数多く残されています。
勝蓮寺の起源となった柳堂薬師寺
起源は平安時代にさかのぼります。
『往生要集』を著し、七高僧のお一人として知られている恵心僧都の弟子に、恵堯という僧がいました。恵堯は師の没後、薬師如来像を持って、故郷である三河の矢作(やはぎ)へと帰りました。
恵堯は、閑居する屋敷の門外にあった柳の樹の下に御堂を設け、そこに薬師如来像を安置しました。里の人々は、この御堂を「柳堂薬師」と呼び、親しみを込めて信仰するようになったのです。
それから長い年月が流れます。
親鸞聖人の来訪と薬師如来の霊告
時は貞永2年(1233年)、秋の8月のことです。
親鸞聖人は、関東での20年にわたる布教を終え、61歳で京都へと帰る旅の途中でした。長い旅路を歩んでこられた聖人のお姿は、旅のお疲れでやつれておられたことでしょう。
そんなある晩、柳堂薬師寺に不思議な出来事が起こります。
当時、柳堂の住職をしていた舜行(しゅんぎょう)は、天台宗の顕教・密教の両方に通じた学僧でした。ある夜、舜行は不思議な夢を見ました。本尊の薬師如来がまばゆい光を放ち、舜行と里の人々に告げられたのです。
西方の教主である阿弥陀如来が、衆生を救うために凡夫(普通の僧侶)の姿となって現れ、東国での布教を終えて京都へ帰る旅路にある。その旅僧がこの柳堂に立ち寄るであろう。これはただの人ではない。お前たちが迷いの世界から脱出する時が来た因縁である。決して失礼な振る舞いをしてはならない
この霊験あらたかなお告げは、一度だけではなく村中の人が何度も同じ夢を見ました。そこで舜行と里の人々は、ただ事ではないと驚き、柳堂に集まって夢の話をしていました。
するとそこへ、親鸞聖人が弟子の蓮位房を連れて、忽然と姿を現されたのです。
大変な驚きでした。人々は、長旅で身なりはやつれておられる聖人のお姿を拝し、夢のお告げと完全に符合することに歓喜の声を上げ合いました。
舜行の改宗
親鸞聖人は、その場に訪れた人々を見られて大変お喜びになり、7日間にわたって柳堂に留まられました。
そこで聖人は、阿弥陀仏の本願について、他力易行の深い教えを説かれたのです。
当時の記録には、次のように記されています。
聖人来集の人に宿善の時至る事を悦び一七日柳堂に御座をしめて本願圓頓の妙術を他力易行(イギョウ)の深意を演説ましましき。誠に難思の弘誓は難度海を渡る大船。無碍の光明は愚痴の闇路を照らす仏願の知炬。薬師の霊告は唯仏與仏の知見。彼といい是といい奇なる哉。妙なる舜行阿闍梨忽ち本宗を改め御弟子と成法名を釋恵眼と賜る
出典:『参河聰視録矢作村記第二』
意訳:親鸞聖人は集まった人々に「宿善開発のときが来た」と大変お喜びになり、7日間にわたって柳堂に留まられました。そこで、阿弥陀仏の本願について、他力本願の深い教えを説かれました。
「誠に阿弥陀仏の本願は苦しみ悩みの海を渡す大船、阿弥陀仏の光明は、全人類の心の闇を照らす智慧の灯火(働き)である。薬師如来のお告げはまさに唯仏与仏の知見であり、あれもこれも不思議なことばかりだ。」と聖人の教えに深く感銘を受けた舜行は、即座に天台宗をやめ、親鸞聖人の弟子となり、「恵眼」という法名を授かりました。
こうして柳堂は、阿弥陀仏の本願を説かれる聞法道場へと生まれ変わり、のちに勝蓮寺と名前が変わりました。
「腰掛石」(説法石)に込められた思い
7日間の法会を終え、いよいよ親鸞聖人が京都へと旅立つ日が来ました。
しかし、聖人との別れを惜しむ門徒や近隣の農民たちは、柳堂の門前の道を埋め尽くしました。人々は聖人の衣の袖を掴んで、出発を遮ったと伝えられています。
聖人は、その熱い信仰心と名残惜しさに深く心を打たれました。そして、道端にあった平らな石に腰を下ろされたのです。
そこで聖人は最後の説法をされました。
恋しければ、南無阿弥陀仏を称えなさい。名号六字に生かされ、最高の幸せ者にして頂いたこの親鸞。どんなに離れていても、同じ世界に救われたならば、いつでも一緒、淋しくはないぞ
「名残りの説法」を静かに行い、人々を諭されたといいます。
聖人が説法された石は現在「腰掛石」あるいは「説法石」と呼ばれ、勝蓮寺本堂脇の御堂に大切に安置されています。
それからまた時代が経ち、勝蓮寺は蓮如上人が訪れたことで、三河の浄土真宗にとって重要な場所となります。
蓮如上人による三河門徒の復興
親鸞聖人の入滅から約200年の歳月が流れました。
室町時代中期、浄土真宗の歴史に大きな転機が訪れます。本願寺第8世蓮如上人の登場です。
当時の本願寺は、他宗派の圧迫や内部の混乱によって、かつての勢いを失っていました。多くの門徒組織は衰退し、親鸞聖人が命がけで伝えられた正しい阿弥陀仏の本願が途絶えようとしていたのです。
この危機的な状況に立ち上がられたのが、蓮如上人でした。
上人は、43歳で本願寺第8世を継職されると、即座に全国各地への巡教を開始されました。そして、散り散りになっていた門徒たちを「講(こう)」という組織として再編し、阿弥陀仏の本願を聞かせて頂く場を再び作り上げていかれたのです。
その過程で、上人が最も心血を注がれた地域の一つが、親鸞聖人ゆかりの三河でした。
蓮如上人が法主になられる前、文安4年(1447年)蓮如上人33歳の時には、関東への巡教の途中、美濃・尾張・三河の地を丹念に訪ね歩かれていたといいます。
三河の門徒たちは、この時、蓮如上人から直接、ご教導を賜りました。
当時、多くの坊舎は荒廃し、門徒たちは正しい親鸞聖人の教えを知らずにいました。上人は、そのような門徒たちに寄り添い、一人ひとりに丁寧に阿弥陀仏の本願を説き聞かせてくださったのです。
親鸞聖人が蒔かれた種が、蓮如上人の手によって、再び芽吹こうとしていました。
蓮如上人の「落葉の御影」―虫歯の痛みに込められた願い
勝蓮寺には蓮如上人にまつわるものが沢山伝わっています。これは勝蓮寺が三河地方の布教において重要な寺院であったからです。
その一つを紹介すると、文明16年(1484年)、上人70歳の時に下付された「落葉の御影」と呼ばれる蓮如上人の御影です。
そこには、上人自筆の歌が記され、「釈蓮如(花押)」の署名があります。
夏すぎてけふ秋きりの一葉おちて身にしみてこそ南無阿弥陀佛
出典:『落葉の御影』
この歌には、深い物語があります。
虫歯が落ちた日の出来事
時は文明8年(1476年)7月1日のこと。蓮如上人62歳の時でした。
上人は大阪の河内出口の光善寺に滞在しておられました。この頃、上人は長い間、虫歯の激しい痛みに苦しんでおられたのです。
そんなある日、その虫歯がついに抜け落ちました。
現代なら歯医者に行けば済むことですが、当時は医療もなく、ただ耐え忍ぶしかありませんでした。その痛みから解放された瞬間、上人の心に浮かんだのは、ご自身の喜びではなく、「諸行無常」の実相だったのです。
夏が過ぎ、秋の訪れとともに木の葉が一枚落ちるように、自分の歯も落ちた。これは小さな出来事だが、まさに無常の理(ことわり)そのものだ―そう感じられた上人は、この歌を詠まれました。
大阪の出口御坊にも、似た歌が伝わっています。
出口にて七月一日に 日ごろいたみぬるむし歯のおちけるは 夏はきのふけふ秋きりの 一葉おちて身にしみてしる 南無阿弥陀仏
出典:『蓮如上人の落歯懐紙』
「身にしみてしる南無阿弥陀仏」―虫歯の痛みを通して、上人は無常の理を身に染みて感じられ、だからこそ阿弥陀仏の本願のありがたさが、いっそう深く心に響いたのでしょう。
歯の痛みよりも深い悲しみ
しかし、蓮如上人が本当に「身を切り裂くように」苦しまれていたのは、虫歯の痛みではありませんでした。
『御一代記聞書』には、次のように書き残されています。
蓮如上人御口の中を御煩い候に、おりふし「ああ」と御目をふさがれ、仰せられ候。定めて御口中御煩いと皆々存じ候処に、ややありて仰せられ候。「人の信なきことを思し召せば、身を切り裂くように悲しきよ」と仰せられ候由に候。
出典:『御一代記聞書』
意訳:蓮如上人が口の中の病(虫歯など)で苦しまれていた時のことです。あまりの激痛に、上人は思わず「ああ……」と声を漏らし、静かに目を閉じられました。側にいた弟子たちはみな、「さぞかしお口の痛みがひどいのだろう」と心配そうに見守っていました。ところが、しばらくして上人はこう仰ったのです。「お前たちは、私が口の痛みで苦しんでいると思っているだろう。しかし違うのだ。私が本当に苦しいのは、信心獲得していない人のことを思うと、身を切り裂かれるように悲しいのだ。」
ご自身の激しい歯の痛み以上に、上人が心を痛めておられたのは、信心獲得していない人々の後生だったのです。
この「落葉の御影」は蓮如上人の「すべての人に阿弥陀仏の本願を伝えたい、信心獲得あれかし」の切実な願いが込められた御影なのです。
編集後記
三河地方に実際に親鸞聖人が訪れたかどうか、ハッキリとした記録はなく、親鸞聖人のお弟子方が伝えられたのかもしれません。
親鸞聖人との出会いを喜び、別れを悲しむエピソードからは、当時の三河の親鸞学徒が親鸞聖人の教えに出会えた深い喜びと、親鸞聖人を心から慕う姿が描写されています。
また蓮如上人のお歌が三河に伝わっていることからも、蓮如上人が当時、三河の親鸞学徒に心をかけてくださっていたことがよくわかります。
私たちは親鸞聖人、蓮如上人の御恩を深く知り御恩に報いられるよう、これからも浄土真宗親鸞会名古屋会館で阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。
