顕正新聞、昭和62年(1987年)4月1日号を紹介します。
同年、3月1日に名古屋市公会堂で高森先生のご講演がありました。
ご講演の要旨です。
正見と邪見 地獄一定が真実の相
仏教は人間の相を正しく見てゆけと教える。
これを正見といい、よこしまな見方を邪見という。
私達には欲目があって、自分の相を正しく見てゆけない。
他人の欠点をあげよといわれたら、五つや六つはすぐにあげられるが、自分の欠点はなかなか出てこないのがその証拠。人間は「なくて七クセ」といわれるように、何かしらのクセを持っているが、自分のクセとなると人に聞かないと分からないものだ。
子供が補導され、警察から呼び出しがあると、親は必ず「うちの子に限ってそんなことはないはず」と言う。「うちの子がやったに間違いありません」と言う親はまずいない。自分の子供を良く見ようとする欲目が働くからだ。
医者は、妻子のガン容疑の診察は友人などに頼むという。妻や子供だとどうしても「ガンであってほしくない」との気持ちから正しい診断ができないからである。
私達の気持ちはバカげている。
レッテルにだまされている。二級酒を入れたビンに特級酒のレッテルがはってあると、やはり二級酒とは味が違うと思って飲む。
大臣、知事というレッテルにだまされて、特別な人のように思ってしまう。中味は同じ二級酒。極重の悪人であり、地獄行きの人間である。
蓮如上人と一休和尚にこんな話がある。
ある時、どこからみても曲がりくねった大きな松の木に人だかりができている。通りかかられた蓮如上人が、覗かれると、一休の書いた立て札が立っている。
「この松の木をまっすぐに見た者には金一貫文を与える」
大勢の人が、何とかまっすぐに見ようとしているが、どこから見ても曲がっている。どこからもまっすぐには見えない。
蓮如上人は笑いながら「また一休のいたずらか」と、驚く人達を尻目に一休の所へ向かわれた。
「あの松の木をまっすぐに見たから一貫文頂こう」すると一休は「あの立て札の裏を見てこられたか」
蓮如上人が立て札の裏をご覧になると、「本願寺の蓮如だけは除く」と書かれてあるではないか。蓮如上人は聞きに集まった人達に種あかしをされた。「曲がった松だと見よ。曲がった松の木を、まっすぐに見ようとするのが曲がった見方だ」
集まった人達は「成程、さすが蓮如さまだ」と感嘆の声をあげた。
曲がったものをまっすぐに見ようとするのが邪見であり、曲がったものとありのままに見てゆくのが正見である。
迷いの心を凝視せよ
私達は今晩とも知れない露の命を持ちながら、まだまだ生きておれると思っている。罪悪の造り通しでありながら、さほど悪人とも思っていない。
その迷いの心を凝視してゆく時、地獄一定の実相が知らされる。真剣に仏法を聞かずにおれなくなってくるのだ。
編集後記
うぬぼれ強い私たちは、自分で自分を、正しく見つめることはできません。
だからこそ、親鸞聖人の教えを正しく聞き、私たちの本当の姿について教えていただかなければならないのです。
「仏法は聴聞に極まる」
これからも親鸞聖人の教えを、浄土真宗親鸞会名古屋会館で真剣に聞かせていただきましょう。